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    葛商今昔物語−1
  葛商も時代とともに大きく変化している。
  校舎、施設、設備といったハードの部分だけではなく、カリキュラムや指導方法、学校行事などのソフトの部分も改良・改善を重ねてきた。
  この章では在籍期間が長い2人の教員と1人のOBに、在職・在学当時の思い出を、いろいろな角度で語ってもらった。

  葛商での14年間●東海林憲明(元本校教諭、数学、向丘高校)
  葛商を見て、葛商を感じて、葛商の生徒と一緒に過ごし、葛商で出会えた先生方とともに行動した14年間、本当にいろいろなことがあった。当時普通教室から見える景色は、ほとんど野菜畑だったし、高いマンションなどなかった。その後、徐々に農地が宅地になったり、駐車場になったりしていった。そして、葛商の内部も社会とともに徐々に変化していった。
▼葛商で初めての担任
  葛商に来てから2年目に担任を持った。その学年が28期だった。当時は1学年9学級で、商業科だけだった。学年全体の15%くらいしか男子がいなかったので、男女混合クラスが4クラス、女子だけのクラス(当時ジョクラと呼んでいた)が5クラスだった。
  ジョクラを教えているときには、「ここは女子校?」という感じだった。男女クラスの担任は、ほとんどが男子教師だった。男子には元気な子が多かった。
▼移動教室と修学旅行
  2年生2月のスキー移動教室、それから3カ月後の3年生の5月に修学旅行を行い、就職活動に入るというのが行事の定番だった。両方とも3泊4日、生徒にとっても、教員にとっても大きな行事だ。
  28期はスキー移動教室が猪苗代スキー場、修学旅行が広島、倉敷、京都だった。32期はスキーが越後湯沢のルーデンス昭和、修学旅行が長崎、阿蘇だった。今考えてもハードなスケジュールだ。その後、行事が見直され、この2つの行事が修学旅行に1本化された。
▼パソコン(PC)
  14年前のPCは、今のPCからは程遠いものだった。まず、外部記憶装置は3.5インチのフロッピーディスクではなく、それより、ひと回り大きい5インチのペらペらのディスクだった。取り扱いにも気を使った。内部記憶容量も小さかった。やっと漢字を出力することができる程度の性能だった。
  ソフトといえば、ワープロの「一太郎Ver3」、表計算の「ロータス123」、そしてデータベースの「桐Ver3」くらいだった。当時はまだ使いこなせる人が少なかった。まだまだBASICが現役で活躍している時代だった。
  学年新聞も手書き、職員会議・成績会議資料もほとんどが手書き、試験問題も手書きだった。専用ワープロ機を使っている人だけがワープロ文書を打ち出していた。
  その後、OSがDOS版からWINDOWS版に変わってからは、急速に近代化されていった。今では手書きの文章はなかなか見られない時代になった。チョッとさびしいかな。
▼遅刻指導とPC
  14年前の遅刻指導は、遅刻3回するとペナルティーがつく。そのペナルティーとは、3日間連続で8時5分までに登校して、掃除をするというものだ。朝掃除と呼ばれていた。3日間の途中で1回でも途切れると、また1日日からやり直しというものだった。
  朝掃除の管理(呼び出しと終了者の管理)と、朝掃除の指導は生活指導部で行っていた。遅刻する生徒が増えだしてきた時期でもあり、生活指導部はとても忙しかった。
  当時教務部だった私は朝掃除の管理をPCにやらせようということで、BASICでプログラムを組んだ。ペナルティー対象者に呼び出し状を出したり、その日の朝掃除対象者の一覧を打ち出すものだった。
  その後、朝掃除はなくなった。その代わり、朝登校というものが始まった。ペナルティーを弱くしたものである。
  その次は遅刻10回で保護者に連絡、20回で保護者に来ていただく、30回で保護者と管理職との話し合いを持つというものだった。
  その後、ペナルティーが放課後になった。漢字の書き取りである。生活指導部だけでなく全職員でいうことで、日番の先生が放課後の監督をすることになった。   このときの遅刻者の管理をまた私がPCでつくった。今度のソフトは「桐Ver5」だった。以前のBASICより簡単にできた。
  遅刻を5回するごとのペナルティーを、漢字の書き取り枚数、生活指導部の説諭、保護者への連絡、管理職との話など、いろいろ工夫してやったが、1学期に30回遅刻する生徒が数人出るという状況だった。
▼葛商祭
  
葛商祭の準備、夜遅くまで頑張った
当時の「葛商祭」は2日間の開催だった。といっても1日日は校内公開でお客様は葛商生だけ。一般客の入場は2日日だけだった。
  しかし、1日日の校内公開が始まる時間になっても、まだ準備中の出し物が徐々に多くなってきたため、このあまり意味のない校内公開は消滅した。そして今のように1日だけの一般公開になっている。
  「葛商祭」終了後の夕方から行われる「後夜祭」は当時、校庭で開催された。まず、机を並べた特設ステージで、クラブ対抗による歌・ダンス・仮装などや、軽音楽とか有志バンドの演奏があった。
  あたりが暗くなると、校庭の中央に組まれていた枕木に火がつく。ファイアーだ。その周りを生徒、先生が囲み、大きな輪を作る。フォークダンスの曲が流れ、みんなが踊りだす。ジェンカも流れる。みんながピョンピョンと跳ぶ。
  踊り疲れたころ、照明塔が消える。ファイアーの火も小さくなる。後のほうから、ドン、ドンという音がして打ち上げ花火が始まる。歓声も上がる。打ち上げ花火が一段落すると今度は火文字だ。暗闇に炎の文字が浮かび上がる。
  
葛商祭でのバトン部の演技。
難しい演技に盛大な拍手
雨でファイアーが中止になったり、近所の方からの苦情があったりして、その後、後夜祭は体育館で行われるようになった。
▼体育祭
  
バトン部を先頭に各団の入場行進が始まる。各団の先頭集団は応援団だ。当時応援合戦は2回あった。2回分の演技を考えるのは大変だっただろう。
  当時あって現在ない種目は、騎馬戦、棒倒し、玉入れ、仮装(先生を仮装させる)、障害走、バーゲンセール(女子のタイヤ引き)などである。障害走の途中に、ソロバンがあった。計算問題があり、それに正解しないと進めないという障害だ。商業高校らしい種目だった。
  雇用情勢の悪化や生徒数の減少の真っ只中で、社会における商業高校の役割や、意義、存在自体を問われる現在、葛商にとっては踏ん張りどころである。先生方の英知を合わせて乗り越えていってもらいたい。

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