記念誌トップへ戻る前のページへ次のページへ葛商ホームページトップへ戻る

    変化の波に対応、情報処理科を設置−2
  ほんの少しの思い出、そして感謝●宮松繁夫(第7代校長)
  体育館の全面を隙間なくびっしりと埋め尽くしている生徒の列を見て、30学級という規模の大きさに、まず驚きの目を見はりました。
  葛飾商業高校での私の日々は、そんな驚きから始まったのです。どの学校にいた時でもそうだったのですが、葛商での2年間は本当に多くの方々に支えていただいた毎日でした。そのことをいつも感謝しております。
  着任早々、家庭科の男女必履修が制度化されたことから、久保清栄先生、富田和子先生のご研究と実践を全国に向けて発表する機会を得ました。文部省の研修指定校として、研究発表の当日は、全国から多数の先生方が来校され、両先生の研究成果を広く発表できたことは、本当に喜ばしいことでありました。
  定時制の方は当時の教頭山崎長文先生(平成6年、向島商業校長の時、急逝)を中心に、先生方がよく協力して、順調に運営されておりました。山崎教頭先生の精力的なお仕事ぶりにはただ感謝申し上げるばかりでした。
  夏休みを使った葛飾区民対象の「ワープロ・パソコン公開講座」も、例年の行事として盛況を博すようになりました。これも情報処理担当の先生方のおかげでした。
  そんなことが1つの契機となって、平成3年(1991年)には、学校の活性化を図ると同時に、葛飾・足立地区に欠けていた情報処理教育の拠点としたいということで、本校に「情報処理科」を設置しようということになり、鈴木敏夫先生(現市ヶ谷商業校長)、半沢孝明先生などを中心に、計画の具体化を進めていただきました。
  当時の基準以上の性能を持ったパソコンを導入するために、役所の方々とあれこれ折衝したことも、今は懐かしい過去になってしまいました。
  平成4年(1992年)度から「情報処理科」開設の目処がついたところで、私は第一商業高校へ異動となり、後を嶋澤仂校長先生にお願いすることになったのです。
  事務、用務の方々にも本当にお世話になりました。とりわけ、故・高津喜三雄事務室長には、何かにつけて助けていただいたことも、忘れられないことです。
  思い出す過去というものは、どれもみな美しく楽しいことばかりです。葛飾商業高枚が40年の歴史の上にさらなる年輪を加え、変革の時代の中でその軌跡を照らす灯火を、いつまでもともし続けていってほしいと念願いたしております。

  生徒がいるから学校がある●嶋澤仂
(第8代校長、埼玉大学経済学部講師、拓殖大学商学部客員教授)
  「生徒がいるから学校がある」の通り、生徒主体の教育を基本におき、生徒諸君の日々の努力を原点に、先輩諸先生、熱意に満ちた教職員の努力、同窓会、PTA、葛翔会の皆様の学校への惜しまない協力、要素がかみ合って、今日の輝かしい伝統を築きながら「葛商」の姿が描かれたのです。
  平成4年(1992年)4月、私は某商業高校から着任。その日にまず感動したのは、住吉小学校から本校までの桜が満開で、私の心に与えてくれたその壮麗さは、いい表せないほど、すばらしいものでした。
  また校地が広々としていて野球、サッカーなどのあらゆるスポーツ活動が1校庭で実施可能なこと、狭い校庭しかない高校を勤務してきたものには驚きでした。その感動・驚きの半面、生徒に対する教育と学校経営に些か危惧の念を持って、教頭・室長と語り合ったが、それはまったく杞憂に過ぎず、全教職員の温心と希望実現に向かっての協力を得て払拭されました。
  都高教問題では午後11時過ぎまで何度か衝突議論を得ましたが、安井健治教頭、異動後の砂永孝教頭、定時制担当の池田敏郎教頭、高井英治事務室長・広瀬丈久事務室長との体制で、学級減などの激動期を通過。諸先生のおかげを今なお感謝しています。
  着任時の生徒については、「始業式は放送で」というのが引継ぎ事項の1つでしたが、教務の鈴木敏夫先生(現市ヶ谷商校長)を中心として、全教職員の協力の力で実施(講話の最中に教務及び私が再三注意)できました。
  また喫煙、窓から火のついた吸殻の投げ捨て、種々の事件、卒業式のクラッカーなどの問題を体得させられていく中、夏冬を問わず校長室のドア開放、保護者・生徒の談笑(教育相談)の場を設ける一方、学習活動をはじめとして文化的活動、体育的活動を通じての全教員による生徒理解、生徒の自己理解を深める体制指導・援助の成果によって、生徒は見違えて大きな実績を残すように変容していきました。
  生徒は総じて下町特有の人なつこさの中にも礼儀正しく、人間味豊かさに敬意を感じています。
  東京都立葛飾商業高等学校は地域の伝統文化や地場産業をはじめ、各分野にわたる地域産業振興の期待を担って創立された高等学校です。今、東京都は新しいタイプの商業高校構想を考察しているようですが、商業高校は地域のさまざまな期待やニーズにこたえながら、商業教育活動を実施しなければなりません。
  地域は経済の多様かつ構造的な変化や地域密着思考の高まりといった人の価値観の変化に伴い地域の活性化に向けた新たな取り組みとして、「葛商」は職業観育成としての位置づけが必要であり、多様な生徒層にいかに商業教育の基礎基本を身につけさせるかが大切であろうと思います。
  葛商生こそ、地域を担う人材であり、地域経済との結びつきを強めていくべき生徒です。ますますの発展を祈念したい。

  東京の商業教育をリードする学校に●鈴木敏夫(元本校教諭、社会、市ヶ谷商業校長)
  私は昭和63年(1988年)度から平成7年(1995年)度まで8年間葛飾商業高枚でお世話になりました。着任早々、1学年の担任となりましたが、9人の担任団の連携よく、また生徒にも恵まれ、楽しく3年間担任を務めさせていただきました。
  このときの卒業生が、私の担任としての最後の卒業生になってしまいました。卒業式の日に生徒からプレゼントされた「先生だけのアルバム」は教員生活の宝物です。葛商での最後の担任生活は思い出深いものがあります。
  さて、平成2年(1990年)ごろ、商業科を中心に、本校にも情報処理科を設置しようという話が出てきました。このままではいずれ葛商はつぶされる(統廃合の対象)、何とか特色を出さないとだめだ、というのが発端です。
  小学科を考えたとき、葛商はHK先生を中心に簿記指導を熱心に行っている学校でしたので、会計科が適していましたが、将来のことを考えると会計科では生徒が集まらないので、流行の情報処理科ということになりました。
  情報処理について葛商はHK先生の努力でコンピュータの台数はそろっていましたが、指導内容が充実しているとはいえませんでした。情報処理科を設置したときのメリット、デメリット、指導内容、指導教諭の確保などの議論を重ね、葛商卒業生のHT先生の熱意と当時の宮松校長先生のご尽力で、設置することができました。
  平成4年(1992年)度から情報処理科がスタートしましたが、試行錯誤の連続でした。言語はBASICにするか、COBOLにするか、ソフトの問題など、さまざま。情報処理が専門の若い先生方が転入され、徐々に軌道に乗ってきましたが、秒進分歩の情報分野の指導はこれからも大変だと思います。
  また、情報処理科ができたことが、商業科にも良い刺激になり、簿記検定も全員合格が当たり前のような雰囲気になってきました。若い先生方が熱心に指導していました。追い越せ、T商、S商、K商で、現在では東京下町では実績ナンバーワンの商業高校になっています。
  これから商業高校はその存在理由を問われる時代です。東京の東・葛飾区に、東京の商業教育をリードしている葛飾商業高校がある、といわれるようますますのご発展をお祈りいたします。

記念誌トップへ戻る前のページへ次のページへ葛商ホームページトップへ戻る

COPY © 2006-2007 葛飾商業高校同窓会 ALL RIGHT RESERVED