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    まず「校地探し」から始まった−1
  危険校舎に間借り
  「これはひどい」
  昭和35年(1960年)4月1日、都立金町高等学校の校長として着任した山田市郎は校舎を見て衝撃を受けた。
  金町高校の前身は昭和23年(1948年)4月に開校した都立葛飾野新制高等学校新宿分校だ。その後、金町に移転し、金町分校となつたが、昭和33年(1958年)10月、独立の定時制高校となり、金町高校が誕生した。
  ただし、独立した校舎はなく、葛飾区立金町中学校に間借りしていた。廊下は波打ち、床板はモザイクだらけ、恵も開け閉めすると窓砕から外れそうだった。山田の目には「崩壊寸前」とも思える木造校舎だった。
  「教育環境が生徒の人間形成に影響することはいうまでもない。これでは先生方も生徒諸君も余りにも気の毒だ。何としても独立校舎を、できるだけ早く持たなければならない」
  山田は、まずは立地条件のよい枚地を見つけることに全力をあげた。今では考えられないが、当時は校長が枚地を探した上で、買収希望を都教育長に申し出ることになつていた。
  山田は金町高校校長を2年間務めた後、葛商の初代校長に就任する。昭和37年(1962年)4月から昭和43年(1968年)3月まで6年間在籍、文字通り葛商の基礎をつくりあげた。初代校長に山田を得たことは、葛商にとって大きな幸いだった。

  着任わずか8カ月で校地を取得
  山田が頼りにしていたのは金町高校教員の笈川達男だ。
  「私は週に1回、都立葛飾野高校でも教鞭をとっていました。その教え子の中に、都議会議員の村田字之書さんの秘書を務めている方の子息がいましてね。山田先生とお話しして、村田さんに相談することにしました」
  と笈川は振り返る。村田都議に協力を依頼したところ、その場で快諾。顔の広さを生かし、候補地探しに助力を惜しまなかった。候補地として選ばれたのが現在地の新宿の土地(新宿3−14−1)だ。
  山田の手の打ち方は早い。昭和35年(1960年)6月16日には、葛飾区選出の4人の都議会議員を紹介者にして、金町高校PTA会長の名前で都議会議長に「金町高校用地購入嘆願書」、都知事に「陳情書」を提出した。
  都教育庁の反応も早かった。すぐに学務部や施設課の職員が相次いで視察に訪れた。
  当初、校地予定地は長方形ではなく、凹凸があったが、村田都議が地主とねばり強く交渉し、長方形にしていった。葛飾区新宿支所の遠藤直・支所長の尽力もあった。
  校地提供者(地主)との話もまとまり、9月15日、新宿支所で校地提供者が「土地提供承諾書」に仮調印する会合が開かれた。10月には都の財務局用地課、11月には評価課の職員が現地を視察。12月14日、「土地売買契約書」「登記承諾書」が調印され、12月末には売買代金約1億5000万円が校地提供者に支払われた。
  実に山田が「新校舎が必要」と思ってから、8カ月しか経っていなかった。校地提供者22人のお名前は次の通り。

石川行男/石川和正/石川一成/星野好恵/星野平造/田中新太郎/田中孝助
田中静江/梅沢幸介/伊藤平次/大川庄三郎/大川源造/大野国八郎/大野清隆
矢作倉之助/矢作吉治/矢作徳治/矢作三郎/矢作文四郎/斉藤鉄五郎
斎藤仲太郎/鈴木辰五郎               (順不同)


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