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    まず「校地探し」から始まった−2
  土地が「商業高校」を呼び寄せた
  校舎の設計を担当したのは都住宅局営繕本部。設計担当者が深夜まで残業し、昭和36年(1961年)6月の都議会開会に間に合わせた。同じく6月には落札があり、基礎および主体工事は三ツ目建設、電気工事は向陽電気、給排水工事は日新化工建設に決まった。
  当初は全日制・定時制併設の普通科高校として開枚予定だったが、地元の要望もあり、商業高校に変更された。学校周辺は今でも都会の喧騒(けんそう)は遠いが、「新宿(にいじゅく)」という地名が示すように、宿場町として、にぎわっていた時代もある。
  「家康入国以前、水戸・佐倉両街道の分岐点として宿駅が置かれたと考えられる。江戸時代にも引き続き、上り下りの人馬でにぎわった。水戸佐倉道の両側に、藤屋・中川家・亀屋などの茶店、旅籠(はたご)が軒を並べ、赤い前だれ姿が旅人を呼び込んだのである」(『東京地名考』朝日新聞社)
  威勢のいい商人たちの声が土地にしみつき、「商業高校」を呼び寄せることになったのかもしれない。
  昭和36年(1961年)7月21日には地鎮祭が行われた。いよいよ本格的な建設工事がスタート。
  建設の槌音が田園地帯に力強く響き始めた。

  「建設協賛会」が発足
  いざ工事が始まってみると、「暖房は石炭ストープではなく、ガスストーブにしたい」など施設拡充の声が起こったが、金町高校PTAの財源は貧弱で、頼ることはできない。
  「地元の有力者や大企業に呼びかけて、建設協賛会をつくり、募金するしか方法がない。しかし、これは非常に困難だ。どうしたらいいか」
  思いあぐねた山田は、ふたたび村田都議に相談。その助力もあって、昭和36年(1961年)10月21日、建設協賛会が設立された。会長には村田都議の口添えで、区内屈指の大企業、三菱製紙中川工場の熊倉正明工場長が就任した。
  「熊倉工場長は『奉加帳』の一番最初に署名され、『金十万円也』と書いてくださいました。続いて、三菱江戸川化学にもご参加いただき、やはり『金十万円也』。この2大企業が参加したことで、後の募金もやりやすくなりましたね」(笈川)
  募金活動も山田と笈川の二人三脚。当時の金町高校は定時制だったので、昼間はもっぱら募金活動に当て、自転車で東奔西走する日々が続いた。
  最終的には区の商工業者から340万円を超える浄財が寄せられた。これは主に住吉小学校の脇から葛商までガス管を引き、教室へガスストープを入れる費用として使われた。ただし、距離の関係があり、引けたのは校舎1棟だけで、あとはプロパンガスを使用した。そのほか、放送設備の充実、校長室の応接セット購入などに充てられた。

  晴れやかに落成記念式典
  第1期工事が終わり、落成記念式典が行われたのは開校後の昭和37年(1962年)11月2日だった。当日は快晴で、風もなく、絶好の式典日和。「葛商新聞」第3号に、このときの模様が紹介されている。
  「本校校舎の第一期工事の落成式が、十一月二日、二時間あまりにわたって盛大に挙行された。青空の下に設けられた校庭の会場には、二百名以上の来賓の方々といっしょに、生徒全員も参列し、緊張感のみなぎる中に順調に進められた。
  来賓の方々の祝辞の中には、式場に臨んだ私たちの態度の立派さをほめて下さったものがあり、これからの本校を背負っていく全生徒に強い自信を持たせてくれた」

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