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    君たちが伝統をつくれ−2
  「商業実践」のスタンダードモデルに
校内駅伝大会に汗を流した(昭和42年) 
「総合実践」も現在ではコンピュータをフルに活用
教務面で中心になったのは教務主任を務めた笈川達男だ。笈川はカリキュラムの充実に全力をあげた。特に「商業実践(現在の総合実践)」にはカを注ぎ、全都的なスタンダードモデルをつくりあげた。後に『商業実践』(実数出版)などにまとめられ、各地の商業高校でマニュアルとして使われたほどだ。
  「商業実践」は生徒がチームに分かれ、会社をつくり、売買、契約、金融、運送、倉庫、銀行、郵便など、ビジネスに関連するすべてを経験するシミュレーション学習だ。バラバラに勉強した商業のしくみ、商業法規、手形・小切手、簿記などの知識・ノウハウをすべて使わないと対応できない。
  それぞれの会社が利益を出し、税金を払うところまで指導する。1人の教員では見切れないので、通常、複数の教員が担当する。教員にも相当の力量が要求された。笈川は授業ではサポーター役を務めたが、終了後は生徒が作成したリポート、小切手などをチェックして、教員を徹底的に指導し た。その指導の厳しさに「泣いて逃げ出した先生もいた」という逸話が残っている。
  「教頭の土屋先生からは子どもを愛することを、笈川先生からは教育の仕事を学びました」
  と石崎章生(商業)は話す。石崎は4期生を担当したとき、クラス全員の家庭を訪問した。生徒の学校生活を家庭に知らせ、家庭での様子を把握したいと思ったからだ。
  「ひとクラスの人数が多く、50人を超えていたように思います。夏休みのほとんどを使いましたね。一番困ったのは『酒を飲め』といわれたことです。ご両親に引き止められ、夕食をごちそうになり、夜11時ぐらいまで、お邪魔してしまったこともありました」

  心配する教師に生徒は「Xサイン」
  草創期から数々の名教師が葛商の歴史に足跡を残した。
  生活指導を担当した高梨洋一郎(商業)、1期生の学年主任だった小林秀一(英語)、いつも生徒を笑わせていた瀬川順三(商業)、読書文芸部顧問で、文学散歩が懐かしい西沢昇(国語)、敬虔なクリスチャンだった岩井利雄(社会)、厳格な小山重光(理科)ら多士済々。
  須藤章(理科)は「葛商と結婚した」という声もあるように、教師人生の大半を葛商で過ごした。評価は厳しかった。テストの点が悪いと、容赦なく赤点をつけた。
  葛商を愛し、「葛商の前に家を建てたい」と常々語っていた。1年だけ葛商に勤務した須藤仙之助(社会)は須藤のご主人だ。
  国語の中村京子は葛商編集委員会顧問として「葛商新開」の発行に尽力した。昭和37年(1962年)7月24日に創刊号が発行された学校新聞で、昭和39年(1964年)6月発行の第8号から新聞部編集となった。後に新聞部休部とともに廃刊になり、現在は発行されていない。
  商業の青木(旧姓・吸田)陽子は生徒が日商簿記検定3級を受験する日、わざわざ試験会場を訪れ、一人ひとりに声をかけて励ました。試験が終了するまで待っていた青木に、会場を出てきた生徒が、手ごたえ十分の「Xサイン」でこたえたとのエピソードも残る。

  初心にかえろう
  代々の校長も個性派がそろった。昭和43年(1963年)4月、第2代校長に羽賀靖が就任した。羽賀は上野忍岡高校教頭、深川商業校長を経て、葛商に着任した。創立して丸6年が経過し、民家が増えてきたといっても、まだまだ田園風景は残っていた。
  校舎の扉には「スズメが入りますから、扉をしめて下さい」との張り紙があった。当時、学校への訪問者の第一声は「カエルが鳴いていますね」だった。
  羽賀が尽力したのは、よき伝統を継承していくことだった。そろそろ草創の気概もうすれ、ただ漫然と葛商を選んだ生徒も増えてきた。在任中の昭和46年(1981年)11月20日には創立10周年記念式典を行った。
  昭和47年(1982年)4月、第3代校長に就いたのは渡部秀雄だ。渡部は葛商生たちが礼儀正しいのに驚いた。登校の際には「おはようございます」、下校の際には「さようなら」、校長室に用事があって、入るときにはノック、帰るときには、きちんとあいさつして引き上げた。
  ただ、若い世代の気質は大きく変わりつつあった。渡部は「集団生活の中で、連帯感を深め、協調性や責任感を養い、秩序と規律を維持するよう努め」ようと試みた。在任時に「2年生の移動教室」を行事として定着させた。

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